さて、2012年12月21日に世界は滅亡しませんでしたとさw

まぁ、18日に書いた通りなんですが、別に特筆する事でもないですね、すいません。
でも、私が
“な~んとなくわかる?いや、知っている??”範囲で21日以降とそれ以前の差をちょっと書いてみますね。
いや、ただの
「メルヘン」ですよ。今回も。
信じたくなければ信じないでくださいね、
いや本当に
信じたければ信じてもいいですが、信じると決めるのはあなた自身の意思(意識)ですよ。
他の誰でもなく、信じると決めたあなた自身の決め事です。
それは忘れないで下さいね。
私は、
「信じる」若しくは「信じない」と決めたあなたの心を変える事まではできません。
なんせ、私に変えられるもの、なんてのは「自分自身」くらいしかありませんので。
さて、前回でも少しさわりは書いているのですが、12月21日に起こった事は、この惑星全体に起こった事です。
いや、今も継続して起こっている事、という方が正しいのか。
超簡単に言えば、12月21日以前と逆側に天秤が振れた、振れ始めた、ようなものなのかな?
知っている人は知っているだろうけど、バシャールってオッサンの言っていた事が言っていた通りに起こった。
そして、それはきっともっとハッキリとした差にこれからなっていく、と。
まぁ、この部分は完全にバシャールのオッサンの受け売りですね。
(知らない人は”バシャール”ってyoutubeで検索してみるといいですよ。もちろんしたくなかったらしなくていいんですよ。単なる怪しいオッサンにしか見えない!っていう気持ちもわかるし。)
そして、これをバシャールのオッサンが言っていたかどうかまでは自分もおぼえていないけど、 これからの人間に起こる変革っていうのは、人間の行動原理の変革。
肉体側に傾いていた天秤が精神側へ傾いた、そしてこれからもどんどんそちらに傾いていく、っていう事。
人が満たされる理由が、主にお金によってもたらされる擬似的な幸福感、刹那的な満足感、といったものから、自分の存在があるがまま受け入れられる幸せ、といった様なプリミティブ(原初的)なものに変わっていくという事。
過去の記事でも少しずつ書いていましたが、あの時々ではあぁいう風に書く事しかできなかったんですよね。 なんでかは自分でもわかんないけど。
強いて言えば、
書きたくなかった、と、ただそんだけなんですが。
ここ一年くらいかけて、自分自身に起こった変化は「耳鳴り」。
いや、それが正確な表現なのかどうかはわからないけれど、耳鳴り、、、みたいに感じるもの。
それは自分の周囲が静かな時にはとてもよく聞こえる、というか感じる、というか。
寝るときとかには特に意識を集中しなくてもそれは自然と感じる。
結構高めの周波数の音の様に自分には感じられます。
以前の日記でも書いた耳鳴りっていうのはコレです。
で、この耳鳴りが一体何なのか、というと、
未だに自分でもよくわかりません。
ただ、これを感じるようになってから、変にこれから起こるであろう事や、こうなるであろう、といった傾向の様なモノ(感覚?)が自分の中で確信の様な明瞭さを持って“わかる”感覚が芽ばえまして…。
いや、思い込みだろ、それ、pgr って言われたら、もう、
全くその通りです!!
って即答できるっちゃ、まぁ、そうなんですけどね。
ただ、この感覚の中には、過去の自分の中にあった揺らぎ、というか、ふらふらした感覚がないんですよね、これが。
迷いがない、と言えばいいのか…。
だって、そうなるんだから仕方ないやんけw それは水が上から下に流れるくらいに当たり前の事なんだもんさ! っていうのに近い感覚なんで、迷いようがない、というか…。
だから、タブンこれからそうなっていきますよ、世の中。
ここに書いたようにこれからの日本は善くなっていきます。
ただ、それに伴って、御退場願わなければならない人たちが必然の様に出てきてしまう。 それは、ある意味、私がそれを選んだから、なんでしょうが、、、。
(この表現については、バシャールのオッサンが何回も繰り返して説明しているんで、そっち見てください。)
必然、自ら滅びばかりを願う人がいれば、いつか本当にそうなりかねない。
それは表向き、そうなって欲しくない!という思いであったとしても、それが起こる事を強く想像してしまうという行いそのものが、自らに滅びの具現をもたらしてしまいかねないから、そういうので滅びたくないなら、そもそもそういう想像や終末論的なものばっかり見たりイメージしたりする事そのものをやめりゃいいのにwと、今の私は思うんですが。
(でも、人間、ハマる時にはこの終末論みたいなのにやたら波長が合ってしまう事もあるんですよね。)
これ、実はまだこの感覚を覚えたての頃に、ある方から送られてきたコメントに対して、既にこういった内容を返してるんですよね、私。
 
でも、この時って、まだこの感覚がわかってなくて(いや、今もわからんけどもw)もてあましてた時だから、イマイチハッキリしない書き方になってますけど。
ただ、不思議なんですけど、このコメントを書いてくださった方のブログを自分で検索しても、もう見つけられないんですよね、今。
いや、googleの検索の上位にならなくなっただけなんだろうとは思うんですけどね…。
11月くらいまではこの方のブログを私も見られていたんですけどね。
正直内容は私の感覚とは合わなくなっていた事は感じていたので、それもまたそういう事なのかもしれないんですが。
まぁ、私としては、もう、自ら進んで触れようとは思わなくなっているのは確かです。
その方の現状がどうあれ、今の私はそう思っている、と。
ただ、それだけです。 それは私の感覚と合わない、と私が決めた結果、と言えるのかな。
(バシャールのオッサンの言い方を借りれば、やっぱりこうなるのかな)
でも、私が一年前頃からの「特殊な件」のカテゴリ内の記事を書き始めた時、私はまだバシャールのオッサンの事、全く知らなかったんですよね。
後で知って、自分の感覚の中にあるものにあまりに近くて、最初は正直、ちょっと気持ち悪かったです。
それと、特殊な件のカテゴリの中で過去に書いたものの中には、その当時あった感覚で書いてて、もう今の感覚の中にはないものもあるので、そのうち整理しますね。
って、一体何人がここまで見ているかはわかりませんが。
 まぁ、ウダウダと書きましたけど、こんなカンジです。
とりあえず、私はこれからの人生も思い切り楽しみたいと思います。
だって、その方が自分が幸せなんでw で、その幸せを実感できるようにするために忘れないようにしようと実際にやってる事を一応、書いておきますね。
・感謝を忘れない事
・何か困った事に直面したら、まず、自分の足を進める事、考え始める事、行動起こす事を、自分の心が原因を他人に求め始める前に実行する事
・迷う選択を迫られた時、まず自分だけが得をする選択を排除し、残ったそれ以外の選択肢の中で自分が考えうる限りに於いて最も他人に資するものを選ぶ事
これら3つをまとめて自分自身を変える事なんだと
「今の私は」
考えています。 
人によっては全くあてはまらない可能性もあるので、あんまり鵜呑みにもしないでくださいね。
仮に、鵜呑みにしてもいいや。って思ってそうするのならば、それはあなたの意思(意識)でそうしたいと思ったから、です。
私が書いた事に感化されたから、ではありません。
感化はされても、最後の決断はあなたが行うものであることは絶対不変ですよ。
変えるのは自分自身であり、変えられるのも自分自身のみ
と、 以前もそういった事を書きましたが、それをするにあたって実際に実行している事というのは、今の私の場合、上記の3つが基本ですかね。
それを続けていくと、あら不思議、自分はいつの間にやら勝手自然に幸せになっていましたよ。 と、冗談みたいなホントのお話。
あ、でもわざわざ自分の身を進んで削って他人の為に何かする!と他人を助ける事を目的と設定してしまい、そればかりに縛られて自分を義務的に動かそうとはしない方がいいと思います。
だって、それじゃ自分が幸せになれはしないので。
義務だけでやってて楽しい事なんてこの世には存在しないと個人的には思ってますし。
 
嫌なもんは嫌でよろしい。
私も嫌な事はイヤ!と今でも、いや昔よりはるかにハッキリ言い放つようになりましたし、ある意味現在の方が他人に対して遠慮をしなくなっている部分も増えています。
でも、何故嫌なのかを相手にちゃんと説明できる根拠があるので、それもセットで必ず説明をするようになりました。
昔はこの部分を「きっと自分の思いをわかってくれるはず!」なんて手前勝手極まりない思考をして、端折っていたんですよね。
で、ハッキリ伝える事に遠慮ばかりしていた。
改めて見たら、
全く真逆ですね。
後者2つは間違いだったと今は思います。 嫌は嫌でいいんです。
遠慮なんていらない。
(場合によっての、「相手をただ傷つけてしまうだけだな、これを言うのはやめておこう。」といった相手への思いやりは忘れてはいけませんよ。遠慮をしないのと、傍若無人なのは別物です。)
ま、単なる
是々非々ですね。
いいとこはいい、悪いとこは悪い。 それでいいと思います。
そして意見がぶつかったら、相手を言い負かそうとしない事。
それは自分を叩き潰そうとするのと実は同義です。
たとえぶつかったとしても、お互いに資する形というのは、
「自分はあなたの意見は(今は)受け入れられない、でも、あなたがそういう意見を持った根拠を知りたい」 「自分はあなたと意見は合わないけれど、あなたがそれを言える自由っていうのは大事だと思うから、合わないにしてもあなたの意見を無理やり私に沿わせようとするつもりはないですよ」
と思える心を自分の中に持つこと。
何故、そう思うに至ったか。 どうして、そう思わなければいけなかったのか。
他人のそれを考える事は、自分の意見に対してどうしてそう思うに至ったか、どうしてそう思わなければいけなかったのかに疑問を振り向け始めるのと同義となります。
それは自分を改善するのに必ず役に立つ宝になっていきます。
そして、相手の意見を叩き潰そうとするのではなく、お互いに自分の意見を言える自由そのものの価値を互いに大事にする事は忘れない方がいい。
あまりに相手の意見を自分色に染めようとすると、逆に自分が相手からそうされてしまい、お互いに意固地になってしまいますので。
まぁ、いきなり実行するにはちょっと難しそうに見える様に書いてしまいましたが、実はこれって中身そのものについてはシンプルなんじゃないかな、と個人的には思ってたりします。
誰だって、嫌な事は嫌です。 誰だって、好きな事は好きです。
あなたの嫌いはなんですか?私の好きがあなたは嫌いなんですね。
あなたの好きはなんですか?私の嫌いがあなたの好きなんですね。
これをきちんとお互いに理解する事。 もちろん、細かく分ければこんなに単純じゃないだろう!!って言われるのも承知ですが、基本は全部これですよ。
だって、そうじゃなくてお互いに好きなものが同じで、嫌いなものが同じなら、そもそも意見がぶつかる事がないわけですので。
人間なんて、突き詰めれば単純なものだと
「私は」考えています。
好き 嫌い 興味ない 物事に対して人はこの3つの意思表示をしているだけだと思うんです。
ただ、世の女性は 
「興味ない=嫌い」 と自分内脳内変換してしまう事が少なくない様なので、世の男性方には、興味がないにしても女性の話を聞く努力だけはする事をお薦めします。
そこだけは、例えメンドクサイと思おうが、です。 ここだけは、普段生きる上でそうしといた方が結果いい事につながるんだよねぇ、という単純な私の経験談からなんですが。
いやはや、
「男と女の間には、深くてなが~い河がある。」
と言ったのは誰だったか…。
さぁ、いつもの様にいろんなとこに話が逸れましたが、まぁ、最後に言いたいことはやっぱり
素直に生きてくださいね と。
やっぱりここは変わらないなぁ…。

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