シフトの話の続き

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この記事で、書いた事についての追記です。
よく、パラレルワールドって言葉を使うと、完全な別世界が過去にも現在にも未来にも存在しているように考えがちですが、実際は過去しか確定していないようなのです。

しかも、その確定された過去は一人一人違うみたいで。

ものすごくざっくりというならば、自分という個人が認識する過去と、(見かけ上)同じ世界で生きる自分以外の人間(自分の親や友達とかを含め)が認識する過去は同じではない可能性がある、という事です。

自分という存在を認識できるのは自分自身だけです。

そして、その過去の話(世界で起きたこと等)の話を友達やそこらへんの人としても、そこに齟齬はまず発生することはありません。

ですが!

その友達やそこらへんの人に意識(自覚)が存在しているかどうかまでは、我々はわかり得ません。

ゲームのPC(プレイヤーキャラ)とNPC(ノンプレイヤーキャラ)の差に近いと考えてみるとちょっとわかりやすいかもしれません。

私が、当然PCと思って(キャラじゃないですけどね)話しかけているいつもの友達の中に、今の自分と同じような意識(自覚)が存在しているかどうかはわからないのです。

友達はそこに存在していますし、共通の過去(これは自分の確定された過去を主とした)と同じ記憶を持ち(同じ記憶、といっても、世界で起きた事とか、例えば第二次世界大戦で日本が負けた、とかそういうかんじのおおまかな共通記憶。共通記録、に近いかもしれない。)、その記憶や行動原理によってプログラム(されたような)行動を取っているだけのNPCかもしれません。
自分が友達と思っているその友達の中身である意識(自覚)は、別の世界にシフトしているかもしれない、ってことです。

もちろん、その友達の意識(自覚)も同じ世界にシフトして存在している可能性もありますが(この状況になれれば、その友達もPCになっている、と考えられる。)、今までの話を仮とはいえ、前提として定義するならば、その可能性は限りなく0%に近い、という事になってしまいますね…。
更に、これが仮に本当だとするならば、我々人間というものは、この宇宙で、ものすごい孤独の中に生きている、ということになってしまいます。

(自分だけがPCで、あとの全部の人間が、高確率でNPC、という事になるから。)
でも、これを仮定すると、色々な矛盾が解決されてきちゃうんですよね。

仮に、この記事に何かコメントをくれる人がいたとします。

そのコメントをくれた人は、今の私の意識レベルと近い意識レベルの人なのは間違いないでしょうが、おそらくNPCです。

そして、この近い意識のNPCは、自分自身(私)の行動によって選定されてきて、NPCがコメントしようと行動する、ということみたいなのです。 これがいわゆる「縁」と呼ばれるもの、のようで。
「類は友を呼ぶ」って言葉がありますよね。

自分が悪いほうにまつろうと、悪いNPCが寄って来ます。

自分が他人のため、自分以外のもののため、と善い方にまつろうと、善いNPCが寄って来ます。

でも、その会うNPCも、ある程度の範囲で最初から決まっているんです。

自分が会わない予定の人間には、どんなにニアミスがあろうとも、決して会わない、というか会えません。
それは、範囲や程度の差はあれど、可能性というもので見れば0%ではありませんが、縁が薄いので、会わないのです。

わかりにくいですね…。
例えば、電車で会う人がいるとします。(自分以外の普通の乗客さん達)

その人達にはわずかながら縁はありますが、強い縁ではないので、結びつきも弱く、希薄で、「会う」というレベルまで至りません。

でも、その希薄な縁だった人の中でも、自分の行動次第で、後から結びつきが強くなったりすると、本当の意味で会う事になる可能性がある人ともなり得ます。

実は結婚とかもそうです。

「縁」あって「結婚」といいますが、その時の自分のレベルに合った人と結婚することになるのが殆どの様です。

自分の意識レベルが高ければ、そういう生き方や考え方に賛同してくれる善い(状態の)嫁、夫と結婚できますが、自分の意識レベルが低い時だと、相手もそれに合わせた悪い(状態の)嫁、夫と結婚することになります。

もちろん、結婚後にお互いの努力で、善くしていくことはできるでしょうけどね。(逆もしかりですが。)

状態、と書いたのは、同じ相手と結婚するのだとしても、自分の状態次第で相手の状態も変わる事があるからです。

もちろん、悪い人との縁がつながって、善い別の人との結婚が流れてしまう事もあり得るし、悪い人との結婚の後に自分の生き方を反省することで、新たに善い人との結婚の縁ができることもあり得ます。

そして、「新たな出会い」だけでなく、自分が善い行動をすることで、既に知っている人(親や友達)にも善い影響を与えて、自分の周囲の人間が善く変わっていくこともあるのです。
当然、逆もそうなんですが。

ただ、この「縁」はこれだけの話ではないみたいで…。
ハッキリとはまだわからないんですが、私とその結婚相手や友達とかには(もちろん親も)、既にある程度の強い縁があるのは間違いないのです。

そして、その強い縁は、NPCを通して、別の世界のPCたる友達にも影響を与え易い、とかなんとか…。
「類は友を呼ぶ」という言葉は、取り方で見え方も全然かわる、、、というか…。

ちょっと逸れすぎました、話を戻します。
>よく、パラレルワールドって言葉を使うと、完全な別世界が過去にも現在にも未来にも存在しているように考えがちですが、実際は過去しか確定していないようなのです。 しかも、その確定された過去は一人一人違うみたいで。 ものすごくざっくりというならば、自分という個人が認識する過去と、(見かけ上)同じ世界で生きる人間が認識する過去は同じではない可能性がある、という事です。
こう書いたのは上記した内容で一部は説明していますが、今の自分から見てNPCと考えられる自分の友達も、その友達自身の世界においてはその友達自身がPCで他がNPCということになります。

つまり、その友達自身の世界での私は、PC(自分の意識(自覚)がある存在)ではなく、NPCであるもう一人の私、ということになるわけです。

この場合、今の私が自覚している、私が主人公のこの世界の歴史と、その友達が主人公のその世界の歴史には大きな差が発生しているかもしれない、ということです。

これが、自分個人が認識する過去と(見かけ上)同じ世界で生きる人間(この場合、友達)が、(その友達自身の世界で意識、自覚を持って)認識する過去は同じではない可能性がある、と言った内容になります。

故に、自分の過去とは、自分自身のみのものであり、友達の過去とは友達自身のみのものであり、現在は、自分自身の行動のみによって確定されてゆき、それも進行形の形で過去になってゆき、変動する未来にむけて、それが連綿と続くことになっていきます。

つまり、過去は自分自身の行動によって確定され、もう決して変わることはありませんが、未来は、自分の過去から現在の行動によって変えられる、ということもできるのです。

過去は絶対に変わりません。

でも、現在の行動で未来をある程度変えることはできます。

その中で善行を積む事で身魂磨きができれば、何らかの形でまつりあげ、となる可能性もあるかもしれません。
ここは、私もハッキリとはわかっていないのですが。

ただ、この未来には、変動する部分と、ある程度固定された部分があるみたいで。

残念ながら、この世界では東北の大震災が起こってしまいました。

これは、私の過去としても確定され、もう変わることはありません。

しかし、この世界では、首都圏でのテロによる東京半壊滅はまだ起きていません。

どうも、2000~2039年までの間に日本に起こる災厄は、固定点に近い出来事の様で、なんらかの形でかならず災厄が起こることは決まっている(た)ようなのです。

別の、ちょっとだけ近くて遠い世界では、地震や津波は起こらなかった様ですが、首都圏でテロが発生し、一時遷都が行われた世界もある様で。

テロも2005~07年くらいに起き、その世界においては、2022年の時点までに地震や津波は日本で発生しなかったのだそうです。

ですが、上記年代中に、何らかの形で日本に災厄が降りそそぐ、というのはどの世界でも決まっているようで…。

形は違えども、起きる結果には程度や事柄の差があったとしても、、その結果がどれを主としているのかまではわかりませんが、必ず起こるみたいなのです。

でも、この話を仮に全部本当だとしたら、自分だけがちゃんとしておけばいい!って思いがちですが、それも違います。

私自身の世界も含め、友達自身の世界も含め、それら無限の世界群全体の多数決に近い決定によって、未来や現在の事象に大きな影響をあたえてしまう、様なので…。

例えば、最近、やたら時間の進みが速いと思いませんか? これは、皆がこんなもんだろう、と思えば、そうなっていくみたいで、実際に数十年前の1分と今現在の1分では、今の1分の方が短くなっているみたいなのです。

でも、ちょっとこのへんは、私自身、まだはっきりとわかっていません…。
とはいうものの、最近みんな生き急ぎすぎている、っていうのは間違いないと思いますので、できるだけまったり生きていく方がいいと思います。

ニートとか鬱とかも、ひょっとしたら本能的に今の時間に適応するのを危険と思ってそれを辞めた人達かもしれませんしね…。
だって、鬱の人達って、頑張るのを辞めるのが何よりの治療なんですもの。

鬱の人をワガママと非難するのは間違いで(最近は病気としてある程度は考えられてますけど)、今、鬱になってない我々の方が異常な流れにストレス溜めながら、やらなくていいのに必死についていこうとしているだけかもしれません。

そもそも、ストレスに耐え切れず自殺する人が多数出る世界がマトモな世界なハズがありません。

今現在の世界は、人の基本的な「生存権」すら金を稼ぐ担保に使われてしまっている点が、何より異常だと私は考えています。

この件は、また今度、書けるようになったら書こうかな。

今回は、仮定の話ばっかりなので、そこまで深く考えることはないです。

信じたいなら信じればいいし、信じたくないなら、それでいいと思います。

ただ、 「我善しは避けて、できるだけ人の為に生きるようにしてみよう」 とだけは思って欲しいかな。

それは変わりません。

ムリすることはありません。

できる範囲からでいいんです。

家族からでもいいんです。

ちょっと親に感謝の言葉を、とかそんなことからでもいいんです。

人が気分よくなるような行動をしよう、と少しずつ思ってくれれば。

ひょっとしたら、最初のうちは、こちらが望む様な結果にならないかもしれない。

でも、それで辞めないでほしいのです。

いかなる結果も、自分が考えて、そうしたいと思って、そうなった結果だ、何があっても自分の責任、と心から思えるようになったら、色々な事に於いて別の考え方ができるようになっていくと思います。
ディスミチア(何事も他人のせい)と考えるのは、どの方向であっても、最終的には自分を不幸にしてしまいます。

それは避けた方がいい。

「○○してあげたのに!」も決して自分に吉に働くことはありません。

何が起こっても、自分の過去の行動の結果なのです。

それを忘れないでください。

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